アレクサンダーテクニーク教師の資格取得中!フルート奏者岡本元輝のブログ

楽器の演奏に役立つカラダとココロについて書いてます!

母が教えてくれた家族の大切さ。

こんにちは!フルート奏者の岡本元輝(おかもとげんき)です。

 

 

今日は自分の家族について書きます。

 

 

 

家族ってみなさんにとってどういう存在ですか??

かけがえのないもの?
大切なもの?
宝物?
うっとうしい?
うざい?

 

 

 

僕にとって家族はとても大切な存在です。

 

 

 

家族と過ごせる時間はあとどれぐらいだろうか

 

 


大学4年の夏に母をすい臓がんで亡くしました。

 

約2年の闘病生活でした。

 

僕たち家族にとって大きな存在である母がいなくなってしまうのはとても悲しく、そして寂しいことでした。

 

すい臓がんが見つかったのは2012年の9月。

 

すい臓は沈黙の臓器と言われていて発見が遅くなることがとても多いガンなんです。

 

母のすい臓がんが見つかったときも既にステージ4の末期ガンの状態でした。


ステージ4の場合5年後の生存率は5%というとても辛い現実を突きつけられました。

 

 

僕たち家族は呆然としました。

 

 


まさか母がガンになるなんて誰1人として思ってもいなかったからです。

 

なんで!どうして!今まで普通に過ごしていたのになぜガンなの!しかも末期ガンなんて、、、

 

 

母の両親、父、兄弟、何より母が一番悔しかったと思います。

 


誰よりも家族のために色々なことをしてくれていた母がガンになるなんて誰一人思っていませんでした。

 

 

それから抗がん剤治療がはじまりました。

少しずつ痩せていく母。

 

抗がん剤治療の副作用で食べ物の好みが変わるというのも本当でした。


元気な時によく食べていたものが受け付けなくなったりと好きなものを食べられないのは精神的にくるみたいでした。

 

それでも僕たち家族のために夕飯の支度をしてくれる母。

 

母は僕に「私がいなくなっても自分でご飯を作れるようにね」と言っていました。

 

母が作れない時は母に指示を貰いながら家族の夕飯も作りました。

その時教えてもらったものは僕の得意料理になっています。


それから数ヶ月が経って手術をしました。


ステージ4の段階で手術をするというのは奇跡だと医者で言われました。

無事手術は成功して通院生活がはじまりました。

 

 

僕たち家族に何ができるのか

 

 

僕たち兄弟、父は母に何ができるのかを必死に考えました。

 

話し合ったりとかはしませんでしたが、今までよりも家族で家にいる時間が自然と増えました。

 

姉は結婚して家を出ていたのですが、よく旦那さんと帰ってきて全員でご飯を食べました。

 

母の代わりに姉が家族の夕飯を支度したりすることもありました。
結婚するまで家事なんて全然したことがなかった姉が家族にご飯を作ってみんなで食べました。
母も嬉しかったと思います。

 

兄と父は通院日に仕事の休みが取れれば車で病院まで送り迎えをして母を支えていました。
2人の都合がつかない時はぼくが母と病院まで一緒に行きました。

 

姉と兄は立派に社会人をして母をしっかりとサポートしているのに自分はまだ学生で出来ることも限られている。というのが自分にとってすごく悔しくて情けない気持ちで一杯でした。

 

 

残された時間を大切にしたい

 

ぼくは漠然と『母の死』というものを意識するようになっていきました。

 

 

あとどれぐらい一緒にいられるのか。

 


母の料理はあと何回食べれるのか。

 


一緒に出掛けられるのはあと何回なのか。

 

 

自分の演奏はあと何回聴いてくれるだろうか。

 

 

考えたらきりがないぐらい色々なことを考えました。

 

 

自分は学生。

 

 

社会人の姉兄、父よりも融通が利くならもっと母と過ごす時間を増やして大切にしていこうと決めました。

 

 

都内でしていたアルバイトもやめて家の近くで出来るアルバイトに変えました。
時間もできるだけ短く午前中だけに。

 

大学も合わせやレッスン、よっぽどのことがなければすぐに帰りました。

 


バイトのあとに一緒に買い物に行ったり、昼ごはんを外で食べたりと色々しました。

 

 

当時ぼくはドイツ語の語学学校に通っていたのですが、このときの出会いがぼくにとって母にできた唯一の恩返しにつながりました。

 

 

母と僕の趣味

 

 

母は昔から色々なスポーツをみるのが好きで特にフィギュアスケートをみるのが好きでした。


僕もその影響で一緒に見るようになりました。

 

秋からテレビで毎週のようにフィギュアスケートの試合を放送していて、それをいつも2人でみていました。

 

2人で一緒に応援していたのは浅田真央選手や高橋大輔選手。

 
ガンが見つかってからもこの2人で見るというのは変わることはなかったです。

 

 

手術が成功してから約10ヶ月。

 

抗がん剤治療を続けていましたがガンが再発していることがわかりました。

 

 

ちょうどソチオリンピックのシーズンがはじまるときでした。

「母がソチオリンピック見れるかなぁ」と言っていたのを今でも覚えています。

 

 

最後の家族旅行

 

 

秋に一泊二日という短い時間ではありますが、昔よく行っていたディズニーランドとシーにいきました。

 

旅行の時はガンが見つかってから約一年経っていました。


体力も以前よりも大分落ちてしまったので車イスで園内を回りました。

 

兄弟と父、姉の旦那さんと交代しながら車イスを押しました。

 

きっとそれぞれ母と色々なことを話したと思います。

 

ぼくは姉がまだ小さい時にいったディズニーランドの話、昔の思い出をたくさん聞きました。

おじいちゃんとおばあちゃんの話。

母が小さい時の話。

 

たくさん話しました。

 

 

僕たち兄弟3人は両親にたくさんの愛をもらって育ててもらったというのがわかりました。

 

今まで当たり前のように家族と話していた時間がどれぐらい残されているのか。

 

このかけがえのない時間がいつまでも続けばいいのにと何度も願いました。

 

 

だからこそ、この旅行は家族にとって大きな意味がありました。

 

ミッキーの家で撮った写真は家族の宝物です。

 

この二日間は一生の宝です。

 

 

余命宣告と母の生きる希望

 

 

2014年の年明けに余命宣告を医師から告げられました。

 

もってあと3ヶ月と父から言われたと思います。


あまりにも突然のことだったのでハッキリと覚えていません。

 

まだ元気なのに。どうして。

 

 

母はそれでも生きることを諦めませんでした。

それは生きる目標があったから。

 

 

 

ソチオリンピックを観ること

 


兄の結婚式に出ること。

 

 

 

初孫の顔を見ること。

 

 

 

オリンピックは2月。
兄の結婚式は3月。
孫の予定日は7月。

 

僕たち家族にとっては長い長い時間。

 

 

母は自分の手帳に『去年は手帳を買う気にはなれなかったけど、最後まで使い切れるように頑張りたい』って書いてありました。

 

母はこれをどんな気持ちで書いたんだろう、、、

 

ぼくにはまだ想像できません

 

 

この手帳は母の日記のようになっていきました。

 

 

自分の体調のことも書いてありますが、それよりも自分の家族のことを心配する母がいました。

 

 

2月のソチオリンピックはテレビの前でみることができました。

 

2人でずっと応援していた浅田真央選手のフリーを見て泣きました

 

ソチオリンピックまで生きていられるか抗がん剤の副作用で不安になることもあったけど見ることができて本当によかった』と書いてありました。

 

 

母は兄の結婚式に向けてお嫁さんにあげるネックレスなどを手作りしていました。

体調がいい時と悪い時の

 

 

披露宴の料理もしっかりと食べれるぐらいに体調がよくて母もびっくりしていました。

無事にこの日を迎えられることができて本当によかった。

 

4月。母と一緒にスターズオンアイスを観に行きました。

本来ならソチオリンピック後のアイスショーなのでチケットはとっても取りにくいのです。ドイツ語学校で出会った方のおかげでなんとかチケットを入手することができました。

ソチオリンピックで活躍した選手がたくさんでるアイスショーでテンションが上がりっぱなしでした!!

 

人の手は借りてしまいましたが、母と一緒にアイスショーに観に行けたことが何よりも嬉しかったです。

ずっと応援していた浅田真央選手の演技はとても美しかった。 

 

 

5月。

月末に体調が悪化し入院することに。

救急車で運ばれる母をただ眺めているだけの自分。またしても自分の無力さを痛感。

 

6月から教育実習に行く予定だったのを大学と相談し辞退することを決めました。

ぼく自身まともな状態で実習に望めない。一緒に過ごせる時間が減ってしまうから。

 

 

母は通院していたがんセンターの緩和病棟というところに入院しました。

 

緩和病棟はがんの治療を終えた、もしくは治療を行わない患者さんが入るところです。

ここでは痛みなどを和らげるような治療が中心になります。

 

教育実習がなくなったぼくは空いている時間のほとんどを病院にいくようにしました。

母は教育実習のことを申し訳なさそうにしていましたが、ぼくは辞退したことを後悔はしていません。

 

病室にいるときはむくんでいる足をマッサージしながら楽器の話。兄弟の話。スケートの話。これから生まれてくる孫の話。いろんなことを話しました。

 

7月。待望の初孫が生まれました。

母も大喜びではやく会いたい!と待ちきれない様子でした。

 

 

7月の半ばに一時帰宅の許可が下りて家族全員でお祝いをしました。

初孫を抱っこしている母の姿を忘れることは決してないです。

 

家族全員が孫の誕生を喜びました。

 

次の日。母は意識を失ってまた入院しました。

 

 

人生で一番つらい本番

 

なんとか意識は戻ったのですが、一時帰宅している一週間の記憶がなくなっていたのです。

孫を抱いている写真を見せても全く覚えていないと悔しそうにしていました。

 

病室に初孫が来てくれました。会えたときはずーっと名前を呼んで嬉しそうにしていました。

 

 

それから数日が経ち母が危篤状態になりました。

 

 

危険状態からは抜け出しましたが意識が戻りませんでした。

おじいちゃんは母の体をずーーーっとさすっていました。

 

 

危篤になってから数日後にぼくはコンサートに出演することになっていました。

フルートとピアノでクラシックの有名な曲を1時間ほど演奏させていただく機会をいただいていました。

 

 

聴きに来ていただいたお客様に楽しんでもらうことはできるのか。

吹ききることができるのか。

キャンセルことも少し考えました。

 

それぐらい不安でした。

 

 

こんなとき母はぼくに何て言うかを考えました。

 

 

『せっかく頂いた機会を無駄にしないこと。私は大丈夫だから』って言う気がしました。

 

 

司会もして演奏することも初めてで相当テンパってしまいましたがなんとか終えることができました。

 

会場に向かう前に少しずつ心拍も落ちてきていると言われていたので、すぐに病院に向かいました。

 

 

病院に着いて数時間後に母は天国へと旅立ちました。

 

お葬式にはたくさんの地域の方が母にお別れを言いに来てくれました。

僕たち家族にとって太陽の母は地域の人たちにも愛されていました。

 

 

さいごに

 

人はいつか必ず死にます。

時間は無限じゃないんです。

 

いつも一緒に過ごしていた人が急にいなくなることはすっごく寂しいです。

それが近い存在ならなおさら。

 

だからこそ家族と過ごす時間はとっても大切だと思います。

 

喧嘩もするし、怒られることもあるし、嫌な思いをすることがあるかもしれません。

でも家族なんです。

 

 

世界にたったひとつの家族なんです。

 

 

 

ぼくが母と過ごしたのは21年間。この21年間に母との思い出がぼくの中にたくさん残っていることが幸せです。

 

音楽をやらせてくれたこと。フルートとピアノをやらせてくれたこと。応援してくれたこと。 自分は幸せ者だなって思います。

 

 

母は亡くなる前、家族全員に手紙を残していました。

 

 

この手紙がぼくの支えになっています。

一生の宝、お守りです。

 

音楽の世界はとっても厳しい世界です。

でもここまでやらせてくれたものを簡単に諦めたくないです。

まだ家族には迷惑と心配をかけてしまうかもしれませんが、自分の信じた道を進んでいきます。

 

 

 

母が亡くなってから3年が経ち、生まれたばかりだった甥っ子も3歳になりました。

今では自分で歩いて、たくさんおしゃべりして、わがままを言って、泣いてとヤンチャ坊主に成長しました。

ぼくのことは『げんげん」って呼んでくれます。

 

可愛くてしかたがありません。

 

ではまた。